「ユーザーイリュージョン」

帯には「意識は0.5秒送れてやってくる。」とある。認知科学の本になるのかな。
序文にはこうあります。

近年、意識という現象の科学的研究を通じて明らかになってきたのだが、人間は意識的に知覚するよりもずっと多くを経験している。人は、意識が考えているよりもはるかに多くの影響を、周りの世界やお互いと及ぼし合っている。意識は自分が行動を制御していると感じているが、じつはそれは錯覚にすぎないのだ。西洋文化圏ではこれまで、人間生活の中で意識は多大な役割を担うと思われがちだったが、じつはその役割は、ずっと小さなものだった。歴史を研究してみればわかるとおり、今日私たちが意識と呼んでいる現象が見られるようになってから、せいぜい3000年しか過ぎていない。中枢にあって「経験する者」、意思決定する者、意識ある<私>という概念が幅を利かせてきたのは、たかだかここ100世代のことなのだ。
本書は数々の科学的経験に基づいているのだが、そうした経験から判断すると、意識ある自我の支配が今後とも延々と何世代にもわたって続くことは、おそらくないだろう。
<私>の時代の幕切れは近い。

この煽りっぷり! テンションがあがらずにおられようか!
まだ序盤ですが、マクスウェルの魔物、熱力学の第二法則、情報理論エントロピーゲーデルの定理などの話が語られています。またここにもエントロピーがでてきました。このエントロピーという概念、なかなか理解するのが難しい。コンピュータの父といわれているフォン・ノイマンも「どのみちエントロピーとは何かがほんとうにわかっている人間などいないのだから(略)」と言ってたみたいです。学者のあいだでも誤解があったようです。
いちおう説明してみると、「1つのマクロ状態に集約されているミクロ状態の数が多いほど、情報量が多い=エントロピーが大きい」となるようです。具体例を出すと、英字を一文字考えるとすると、英字は26文字なので26通りの可能性があるわけです。かたやひらがなを考えてみると、こちらは46文字なので46通りの可能性がある。この場合、ひらがなの方がエントロピーが大きいと言えます。
このマクロとミクロの話はとても興味深いです。じつはこの両者の立場には同時に立てないのです。例えば20度の温度の空気のかたまりがあるとして、これはマクロの立場に立てば20度の空気です。でもミクロの立場に立つと、さまざまな速度で分子が飛び回る空間、ということになります。ミクロの立場では「20度」という概念はありません。さまざまな速度で飛び回る分子を巨視的視点、統計学的視点で見てはじめて、「20度」というものが意味ある概念として立ち上がってきます。
これは量子力学でも同じことで、原子や電子は確かに確固とした存在としてあるように見えますが、さらにもっともっとミクロの視点でみると存在するかどうかは確率の問題になってきます。全体の確率は決まっているので、個々の量子の存在する・しないを統計学的にマクロの視点からみると、原子は確固として存在するようにみえるのです。
このマクロ・ミクロ問題は、ほかの学問、例えば社会学なんかにも言えそうですね。個々の人間はそれぞれランダムに動くけれども、社会全体で見ると一定の方向に動いているように見える、のように。

ユーザーイリュージョン―意識という幻想

ユーザーイリュージョン―意識という幻想