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 同じところで、名越康文インタビュー(http://www.mammo.tv/interview/174_NakoshiY/index.html

 たとえば、メカが好きでメカの本ばかり読んでいるとします。ある時期まではそれでいい。でもある深度以上のものは、たとえばそれに自分の夢を馳せた青春を送った人物に出会わないとそれは地に降り立たないんじゃないか。その人の人格形成のバランスが取れなくなるんじゃないか。そういう人物に出会うことを「師に出会う」と呼ぶんだと思います。
 どれだけ情報の流通があっても、自分が抽象的な世界に夢を馳せる憧れを持っていても、ある人格に結びついた出会いがないと、その憬れを持っている人の中に結実していかない。次の世界に行けない。もっと高みに達することができない。
 第一は発心、第二は師に出会うこと。僕は生きた人間との出会いが幸せだと思う。人間が窓になる。自分にとってより広い宇宙や地平を見られる窓になれる師。それは盲目的に信じる師ではなく正にひとつの窓で、その窓を通じて世界を見ることがすごく大切。それが精神のリレーになるし、自分の精神が死んでも人から人にリレーすることができる。それを間違えるとカルトになりますね。
――欲望とフラストレーションを抱いていないと師には出会えない?
 スーフィーイスラム神秘主義)の言葉に「砂漠のように乾いた心を持つ人は必ず師に出会える」というのがあります。自分が強烈な精神の乾きを持っていたら水がーこれは師のことですけどーすっと自分の中に入って来る。乾きはハングリーさや愛情が枯渇しているとかじゃなくて、なんといえばよいかもっとスピリチュアルな枯渇です。そしてその渇きを感じとるためにはそれ以外のことに「満足」していないと難しいんです。
 残酷な言い方かもしれないけど、「自分はひどい目にあっている被害者だ」と親や友達のせい、社会のせいにしている人は師と出会う確率は低いと思う。「それでも自分は恵まれている」と思えるというのは、ある程度の成熟と精神力がないと得られない境地です。いつでも何かが足りない、それは他人のせいだという人は必ずとり逃がしてしまうと思う。ある程度のものを獲得したから、これで満足できるはずなのに依然として心の奥の方に何らかの乾きがある。それが師と出会うチャンスになる。これをわかってない人は「もっと足りないからくれ」と貪欲になって、「俺に何か教えてくれ」というから間違った選択をしてしまう。
 自分が実は満ち足りていることを知っていて、その上でなおかつ乾きがある。そうした不可思議な乾きを認識したときに師に出会うチャンスがあるんだと思います。

 お師匠さま、お待ちしております。