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 五味太郎インタビュー(http://www.mammo.tv/interview/176_GomiT/
 力強いな、このおっちゃん。

 若い人に特別言うことはないんだけど、動きながら考えたほうがいいとは思うよ。考えて動くんじゃない。車だって動き始めてからステアリング回さないと回しにくいじゃない。だから死期を感じたら教育論の本を書くつもりなのさ。いまの教育は順番が逆で動かないガキにまず教えてしまう。お勉強してから、練習してから行動する。やってから練習すればいいのに。
  仲間とテニスをやっているんだけど、集まったらすぐ試合するんで隣のコートの人はびっくりしている。誰も準備体操しないからさ。そういうのは個々やってこいって話で、運転しながらでも柔軟するわけ。「こんにちは」ですぐ試合始めるのさ。やっているうちに足が痛いとかあるけど、その中で弛んでいけばいい。
  人生もまったく同じで、わかんないことは動いてみてからいっぱい出てくるのさ。わかんないから学ぶ状態ができている。
  子どもって全然疑問を感じてないのさ。平和に生きているの。朝が来て、ご飯食べて、「なんかいい感じ!」みたいな…。それで新しい運動靴なんかあればもっといいじゃない。前の日からわくわくして早起きしたりしてさ。で、靴履いてトコトコ行って、犬がいたり木があったり、友達がいたりして、学校行って「なんか楽しいな」って。
  それが急にいわゆるお勉強が始まると、この字が何だとか、こうしちゃ駄目よとかいって、それはいいんだけど、こっちには疑問がないわけよ。それが「この字は何だろう?」とか疑問持ち始めたら教育は少し役立つものでしょう。
  なにしろトレーニングがあってから本番が始まるってのは間違いだと思う。いかにもトレーニング的な教育は不毛だよ。
  いまはむしろ学ぶことの大変さ、面倒臭さ、あるいはそれらに対応することへの努力でほとんどのエネルギーを使ってしまっていて、そういう学校へ行くことに価値があるみたいになってて勿体ない。
  動いてしまえばもっとわかんないことがいっぱい出てくるから、それに対応するシステムが教育。それを社会が持っているというだけで、個人というのは勝手にしておかないとつまんなくなるよな。

 古田貴之さんも同じようなことを言ってたな。いまの教育はプラモデルを作らせてるようなものだって。つまり出来合いのものを正確に作るってこと。本当はそこから先、自分で新たなものを作るのがおもしろいのに、って。その目的を達成するための勉強は、それまでの無味乾燥なものから180度変わって、俄然エキサイティングなものになる、って。

 仕事を手伝ってくれている若い子がみんな気持ちいいんだけど、だいたい高校から大学である覚悟をしているの。それは「自分の得意な人生で行こう」っていうことで、何かしらあるものを捨てている。全方位外交は止めようってどこかで思ったみたい。まあ、ひとつにはできなかったんだろうけどさ。捨てざるをえない思いを味わって、でも元気に生きていこうと大なり小なり思っている。何かを得て来たよりも捨てて来たほうが大事みたい。きちんと捨てて、あとに残したもので生きていく。
 翻って、やや器用であちこちにいい顔ができてきたくらいの実力があった人、象徴的に言えば四大まできちっと出てきてしまった優秀な人たちが難しい。いろんな企業に就職活動して、給料がいいからということで選んだ人間がめちゃくちゃ空洞なわけさ。人生って、いつか「あれは何だったんだろうな」と気付かざるをえないのさ。本当に私は生命保険が好きだったのか。報道が好きだったんだろうかって。

 これ重要だよ。きちんと捨てることが大事って。あー、捨てんのってむっずかしいよなー。でもちゃんと捨てないと、可能性が可能性のままで終わっちゃうんだよなー。中途半端に能力がある人ほど、何者にもなれなかったりする。